覚え書き 14
14.花嫁修行
「いやー、助けてフリッツ様ぁ」
とある昼下がり、奇声を上げながら廊下を走ってくるマールバッハ男爵令嬢を見た。
「マールバッハ男爵令嬢、なんですかはしたない」
ロッテンマイヤーさんみたいな人がマールバッハ男爵令嬢の背中に声を投げつける。
ぴたりと立ち止まると、マールバッハ男爵令嬢は勢いよく振り返った。
「だって、さっきから礼儀作法とか世界史とか、花嫁修行じゃないのばっかりなんだもんっ!」
スカートの両脇でこぶしを握り、肩をいからせてマールバッハ男爵令嬢が叫んだ。
「はしたないですわよ、マールバッハ男爵令嬢。普通の貴族令嬢が身につけている礼儀作法も全くできないのだから、仕方がないでしょう」
やっぱりそういうことか。頭の中に綿菓子でも詰まってそうだからな、あの令嬢。
「でもっ、花嫁修行ってお料理とかお裁縫とか習うもんじゃないの?」
「料理はコックが作りますし、裁縫は侍女の仕事です」
毅然とした態度でロッテンマイヤーさん(仮)がマールバッハ男爵令嬢に答えた。
うん、その通りだね。マールバッハ男爵令嬢はいつまでも前世を引っ張りすぎだと思う。
王族の一員になるのだから、日本で言うなら皇族のように、外交をやらなくちゃいけなくなる。礼儀作法も世界史も必要だね。
マールバッハ男爵令嬢は、両頬をぷくーっと膨らませた。フグだと思えば可愛いかも知れない。
「マールバッハ男爵令嬢にロッテンマイヤー伯爵夫人。このような場所でどうしたのかな?」
第二王子がこちらに歩み寄りながら声をかけてきた。
「これはこれはエルヴィン殿下。お見苦しいところをお見せしました」
本当にロッテンマイヤーさんもとい夫人だったのか。
カーテシーをするロッテンマイヤー伯爵夫人に応じる第二王子殿下。そこにマールバッハ男爵令嬢が食いついてきた。
「エル様お久しぶりです。こんなところで会うなんて、運命を感じますわ」
覚えたばかりなのか、ぎこちない動きのカーテシーだな。
「運命と言うならヴェルナーの方じゃないかな?私は彼がここにいるから来たのだけど」
「え?そうなんですか」
素っ頓狂な声をあげるマールバッハ男爵令嬢を、じっと見つめるロッテンマイヤー伯爵夫人が怖い。
めちゃくちゃ怒ってますね?
「マールバッハ男爵令嬢、あなたは王族の方と相対するには、まだまだ勉強が足りません。部屋に戻りなさい」
「ひどい、なにそれ?」
「酷いのはあなたの立ち居振る舞いでしょう。いい加減に自分の行いを省みなさい」
反省とか、マールバッハ男爵令嬢には無理だよ。
「確かにカテリーナと比べると無作法なようだね?」
「ひどい〜エル様まで〜」
「そこだよ。舌足らずで甘えた言い方。カテリーナでなくても比べるまでもない」
「そ、そんな…」
「兄上はそこにころっと参ったかもしれないけど、私は御免だよ。とんでもない失態をやらかしたら、私にまで責が及ぶからね。現に今兄上は、マールバッハ男爵令嬢のやらかした失態の責任を取らされている」
「そうなんですか?」
「あれから兄上に会えてないはずだよ」
「そういえば…」
「兄上も再教育を受けていてね。それはもう一挙手一投足、全てに於いて徹底的に」
マールバッハ男爵令嬢が俯いた。
「再教育を受けた兄上の目が覚めて、君との婚約を解消したいなんて言い出したらどうする?」
マールバッハ男爵令嬢の顔から血の気が引いた。
「そ、そんな…あたし…」
「君みたいな子は、下級貴族か庶民と結婚する方が幸せになれるかもね」
「あたしっ…勉強します!」
冗談じゃない、とマールバッハ男爵令嬢の瞳は言っていた。乙女ゲームの世界に来て、同じくらいの身分の男性と結婚なんて、死ぬほど嫌だろうな。
でも残念ながら、俺も第二王子殿下と同じ意見だ。
その後マールバッハ男爵令嬢は、ロッテンマイヤー伯爵夫人に連れられて、大人しく部屋に戻った。
「さて、邪魔者はいなくなったね」
「はっきり言いますね」
「あんなのに好感を持つのは、珍獣愛好家ぐらいなものだよ」
吹きそうになった。エルヴィン殿下は唐突に俺に試練を課す。
「では意外と珍獣愛好家は多いということですね」
「そうなのか?」
「フリードリヒ殿下の側近候補はほとんどですね」
「君も側近候補だったね」
「…一緒にしないでください」
ため息混じりでそう返すと、第二王子殿下は実に嬉しそうに笑った。
「君とは女性の好みが合いそうだね」
第二王子殿下の視線の先には、少しはにかんだような笑みを浮かべた、コースフェルト侯爵令嬢が立っていた。
いや、爆弾投下しないでください。
「いや、横恋慕はしませんから」
「そう?」
つまらなさそうな顔をしないでください。
コースフェルト侯爵令嬢は、優雅にスカートをつまんでお辞儀をした。
こういう所作は、一朝一夕ではどうにもならない。
「お出迎えありがとうございます。お待たせしてしまったでしょうか、エルヴィン殿下」
「私もたった今着いたばかりだよ。それじゃ、行こうか」
第二王子殿下のエスコートで歩きだした二人の後ろをついていく。
幸せそうなコースフェルト侯爵令嬢の横顔を眺めながら、俺は安堵の息をついた。